プロポーズされたとき、頭に浮かんだある女性
夫と出会い、プロポーズされたとき
あるひとりの女性の顔が思い浮かびました。
私はおばあちゃんっ子。
「ねえ、
おばあちゃん・・・
私、本当に結婚できるのかな・・・」
婚活につかれた私が弱気になると、
祖母は、あの温かい広島弁で、
いつもこう言ってくれました。
「大丈夫。
ななちゃんみたいに、優しい子はおらん。
絶対、ええひとがおる。
じゃないと、世の中おかしいけえ。」
祖母が信じてくれている、
それだけで、
不思議と強く優しくなれたものです。
運命の分かれ道
広島の祖母の実家は、
原爆ドームから半径5キロの距離に
ありました。
生き残った祖母。
あのとき生死をわけたのは、
原爆ドームと実家の間に流れる「川」。
化け物のように
うねり狂いながら迫った炎が、
川のおかげで食い止められたのです。
亡くなったはずの婚約者
祖母には、一人の婚約者がいました。
学徒出陣の名のもとに、
生死すらわからなくなっていた背の高い大学生。
それが祖父でした。
広島とフィリピン。
過酷な戦中を生き抜き、戦後、奇跡的に再会した2人はすぐに結婚。
小さなお米屋さんを興しました。
焼野原から、裸一貫、
自分たちの両親と子どもたちを養ってきた苦労は、
言葉では言い尽くせないものでしょう。
でね、
いつだったか、ふと思い立って
祖母にこんな質問をしたことがあります。
「ねえ、おばあちゃん、
おじいちゃんと結婚して良かった?」
すると祖母は
迷うことなくこう言いました。
「うん、わたしゃ
おじいちゃんと結婚して
ほんま良かったと思うとるよ。」
「おじいちゃんの、どんなところが好き?」
すると祖母は
「ほうじゃね・・」
ひと呼吸おいたあと、
こう続けました。
「おじいちゃんはね、
目がきれいなんよ。」
たったそれだけ。
でも、私には十分すぎる言葉でした。
遺言
晩年は、祖父はよくぼやいていました。
「お前が先におらんようになったら、
わしゃ、さみしいけえ・・。」
「その心配はご無用」 と、おどけていた祖母は、
その言葉どおり、祖父がなくなった半年後、眠るように旅立っていきました。
おばあちゃん、ありがとう。
夫を紹介したとき、
『あんなに優しい人はおらんよ。大事にしんちゃいね』と
くしゃくしゃな笑顔で太鼓判を押してくれた彼。
私はこれからも夫婦で一緒に生きていきます。
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